自己紹介

小野順平(オノジュンペイ)

10月28日愛知県生まれ O型 蠍座
7年ごとに違う場所に住んできましたが、現在は東京の墨田区錦糸町に住んでおり、独立してから既に12年が経ち、スタジオを構えて8年になりました。これまで多くの素晴らしい人々と出会い、その出会いに感謝しています。 ラグビーをやっていたのは昔のことですが、太っているので誤魔化しています。人々に優しさをもって接し、常に優しい写真を撮ること、提案することが私のスタイルです。写真を通じてストーリを作り、瞬間を切ります。 「わたしは並の人間にすぎませんが、ほんとうに普通の人以上に一生懸命にやります」という言葉は、私の信念です。これからも写真に携わり記録よりも記憶を大事にしていきます。どうぞよろしくお願いいたします

小野順平の説明書

愛知県津島市で生まれる。記憶を辿ってみてもあまり覚えてはいないが、優等生ではなかったし、幼稚園でもよく先生には怒られていた。 小学校入学前に愛知県から茨城県取手市藤代町(当時は北相馬郡)へと転入。この時に初めて、方言があることを知った。名古屋弁を話すことが普通だったのにそれが他と違うと気がつくには時間はかからなかった。低学年では授業中に出歩くこともあったが、それも高学年に連れて落ち着いてきたが、先生にはすぐ反抗する生徒ではあった。中心的にならないとみたいなタイプで学級委員にはよくなっていたが勉強の方はあまりできなかった。プロ野球選手には憧れていたが、特段に上手い選手ではなかったが、野球は好きだった。先輩と後輩がプロ野球選手になっていた。 藤代中学では野球をして過ごしていたが、中学2年の夏に兵庫県西宮市に転校し、関東から関西へと移って行った。正直、関西弁は苦労した。イントネーションが全く違うので、ものすごく大変だった。関西弁を話すことが恥ずかしかったし、なかなか抜けきれないまま高校へ入学した。西宮南高校ではラグビーに没頭していた。将来のことは何も考えていなかった。ただ、ラグビーが好きだった。
あいみょんが入学するずっと前のことだ。高校時代のモテ期は今となってはいい思い出だ。ただ、誰も信用はしてない。 勉強もたいしてしてなかったくせに、自分の学力を過大評価し、大学受験に失敗し浪人生活を送る。何になりたいというのはなかったが、マスコミに行きたいなとは思っていた。
浪人時代は毎日小説ばかり読んでいたので将来は作家になれれば、なんて漠然とそんな夢があったが、自分から何かを発表するとかは特になかった。
北方謙三に憧れ、当時モテる男のバイブルだったホットドッグプレスを読んでも実にはならなかった。

大学受験に3度失敗し、道が閉ざされてしまっていた時に、学生募集案内に写真作家コースというのが専門学校にあったので迷わず飛び込んだ。
ビジュアルアーツ専門学校に入学する、二十歳の頃だ。勉強することから逃げ、安易に何かをするわけでもないが何かにしがみつきたかった。
写真の知識も興味もなかったが、ふとこれが俺の生きる道かもと勝手に思い込んではいた。
不真面目というのはいつまで経っても治らず、夜間のホテルでバイトをしつつ、結局ダラダラと過ごす。
2年というのはあっという間で、最後の方はほとんど通ってはいなかったが卒業だけはできた。
この間、四国八十八ヶ所を踏破し、富士山に登ったのが唯一の自分の中での出来事だった。
卒業間際に新聞で見つけたカメラマン募集広告に飛びつき大阪のとある会社に面接に行くと受かってしまった。
現在ではその会社もなくなってしまった。
今はネットで探すこともできるが当時は新聞か雑誌しか選択肢がなかった。
どこかに入れたらいいや、くらいにしか考えておらず安易さは抜けきれていない。
約1年弱だったがカメラマンとして働いてはいたが充実感がまるでなかった。
もちろん変化はあったのだが、東京の出版社の就職試験を受けたりしてはいたが受かりはしなかった。 不安を感じつつも写真家としていつかなれればなとしか思っていなかった。

このままじゃいけないと思っていた時に テレビで沖縄の特集をやっていた。
「沖縄に行こう」
社会派を気取っていた訳ではないが、沖縄に行けば自分が変われるのではないかと感じていた。 自分しか知らない沖縄で写真を撮って個展やって本出して、1年間限定と決めて沖縄に旅立つ。

結果的には実現には至っていない
沖縄には沖縄独自の文化があって、それに戸惑いもしたが、沖縄で過ごした一年は今も忘れてはいない。 沖縄生活を終えて、関西に戻りアルバイト雑誌で見つけたカメラアシスタント派遣の会社に入ることになった。

ここからがわたしの人生の分岐点。 写真の知識はあったものの、そこではまざまざと何もできない自分を突きつけられる。
仕事なんてできると思っていたものの、実際現場に行っても何をしていいのかがわからず、同僚に後ろから蹴られたことも、怒鳴られたこともしばしばあった。

カメラマンへの憧れはもちろんあったが、どうやってなっていくのかがわからなかった時に、東京から来たカメラマンが眩しく見えた。
もう単純に「東京」へ行こうとなった。

毎月出るコマーシャルフォトの募集広告を頼りにプロダクションに採用される。
24歳の時だ。
ネットなどで募集もしていなかったので毎月発売される雑誌の求人広告でようやく見つけた撮影プロダクションに採用される。 カメラマン兼社長だった長野正隆氏に師事し、アシスタントを4年過ごしたのちにカメラマンとなる。
4年と書けば短くは感じるが、とても長い時間だった。最初はカメラマンが4人いてアシスタントが私一人。カメラマンは休憩ができるが私は、ずっとカメラマンについていないといけなかった。挫けそうになったことは多々あるが、絶対にカメラマンになりたかったのでどうにかこうにか我慢しながらやっていた。ただ、ただ、毎日が過ぎればいいと思っていた。カメラマンになったのはもう少し後になってからだ。
鍛えられた時間がここにはあった。

デジカメなどなかった時代は露出を間違えたらドヤされ、チームという概念はなくアシスタントは本当にただのコマに過ぎなかった。
もちろんそんなことばかりではなかったが、今思えば育てれくれた恩義もある。 苦しくても辞めるという選択肢はなく、苦しみながらも将来はバリバリ仕事もしてすごいカメラマンになれるのかと信じていた。そしてようやくカメラマンになれたと思ったらリーマンショックだったり、仕事が減っていた。単なる言い訳には過ぎないのだが、自信はなくしていた。 カメラマンとして、今思えばやることは沢山あったのだがその時は何も浮かばずただただ日々を過ごしていた。
カメラマンをやめようと何度も考えたが、しがみついていた。  ある時、心が折れて辞める決断をする。 東日本大震災の前の月のことだ。

本当は何がしたいのだろうか?
やれることからやればいいかなと方向転換してコツコツと仕事があればやり、無ければ着ぐるみにも入り、ポスター張りだったり、チラシ配りもしていた。
多分一人だったらやめていたとは思うが子供もいて、自分の諦めも悪かったからこそなんとかしがみついて来れた。 ただ、運が良かったと思ってもいる。たまたま墨田区に住み、いい友人に恵まれた。
すみだでいろいろな人に助けられてなんとかここまでやってきた。
もちろんすみだ以外にでも助けてくれる人もいた。
だからなんとかここまではやって来れたのだと思っている。
記録よりも記憶、アシスタントの時に教えられた言葉も大切にしている。 また、ここまで大きな不自由もなく暮らせて来れたのも両親のおかげだと思っている。だからこそ、いつかはカメラマンとして恩返ししたいし、これからもカメラマンとして生きて行く。

墨田区への想い

たまたま縁があってて墨田区に住んでいるのにも関わらず
「すみだ」のことは何も分かってはいなかった。
偶然知り合った友人がモノづくりをしていた関係で
自分のライフワークとしてすみだに近づきたいそう思っていた。

ひょんなことからすみだの方達を知り、撮影をさせてもらうようになった。

モノに対する思いや家業を継ぐ人たちが沢山いた。
大人になっての友達が増えたのがすみだだった。
記録ではなく記憶として残していきたい。

今後のライフワークとして写真を残していきたいと思っている。

小野順平写真事務所では作品撮影しております。
協力していただける方には写真を差し上げております。
心に残る作品を撮影させていただきます。

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